詩と愛

詩と絵のアイデア

14 センチメンタル

ジャーニー。

ハッチポッチステーションである。

センチメンタルなジャーニーとその他大勢の楽しい仲間たちの人生が織り成す壮大な物語。

そう、人生とは物語なのである。FFXでアーロンも言っていたからまちがいない。ちなみに、物語は人生とは限らない。

人生が物語だとして、それを繙く者が存在するのだとすれば、それはどのような存在なのだろうか。神か。(ところで、これは本筋とはまったく関係のないライフハックであるが、なんでもかんでも神だと言っておけば勝ちになるため覚えておくと時折役に立つ。)

そして、どのような方法で繙くのだろうか。それも気になる。本をめくるように、心を、一枚、一枚とべりべり剥がしていくのだろうか。などと想像してしまうのは困ったものである。

それっぽいことを言うなら、人生を繙くのは自分自身である。過去の記憶を辿って、そこにあった悲喜交々を読み解くのである。

そして、詩の役割のひとつは、その具象化である。昔から人間は、人間のことを語るために言語を、さらには詩を創造してきたのである。そこに込められた熱情を読み取ることで、人間の理解に一歩近づくのではないだろうか。

……などと、ジャーニーは思っているに違いない。なぜならばセンチメンタルだからだ。

12 干からびた

みみず。

みみずが干からびると、はなよちゃんがそれを拾って帰ってきてしまう。

はなよちゃんが干からびたみみずを拾って帰ってきてしまうと、ぼくは少しだけ叱らないといけない。叱らないと、干からびたみみずを拾って帰る大人になってしまう。

これは善いことか? はたまた悪いことか?

その点がぼくには判断できない。「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象に対して善悪の判断をつけられるほど大それた人間ではないことはすでに判明している。

それでもぼくは叱らないといけない。なぜならば、「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象を悪だと考える風潮が社会に蔓延っているような気がするから。

しかし、気がするから、というだけで叱ってしまって善いものか? いっそのこと絶大な権力がそれを悪だと決めつけてくれれば、と思わないこともない(これはディストピアの始まりである)。善悪の判断が螺旋を描いてぼくを飲み込んでゆく。

というわけで、ぼくは明快な根拠を持たずに、はなよちゃんを叱ることになるのである。「みみずに水をかけてもどす仕事」の到来が待たれる(水でもどされたみみずは、はなよちゃんによって持ち帰られない)。

11 麗

うららかな春の陽気、と言われたところで「うららかな」のあたりがどうもピンと来ない。正確な意味を求める諸氏におかれては、お得意のスマホ・ポチポチで上手にやればいいのであって、ここではうららかについてこれ以上の詳細は記載されないのであるが、どうせ「なんとなくいい感じ」程度の意味合いだろう、と日本人経験そこそこの人間であるところのぼくは思うのである(実際にスマホ・ポチポチをするとだいたい合っていることが確認できるはずだ)。

ところで、「うららかな」から想起されるのは「おてんば少女」であり、「うるわしの」から想起されるのは「深窓の令嬢」であるということは周知の事実である。いやに方向性の異なる少女像であるが、いずれも「麗」の字を当てている。共通項はないかと今世紀最大の知性に照らしてみたところ、どちらもやはり「なんとなくいい感じ」であるという点において共通している、という発見がある。

しかしなんというか、「深窓の令嬢」というとなんとなくどころではないいい感じがするよなぁ、というのが、ぼくが最終的に言いたいことであり、春の陽気がうららかだろうがなんだろうが「深窓の令嬢」の前には塵芥に過ぎないのである。

ところで「深窓の令嬢」の正確な意味を知りたければ、これまたお得意のスマホ・ポチポチでがんばるといい。ここでは「なんとなくどころではないいい感じのする人」程度の意味で扱っているし、9割がた正しいということが、実際にスマホ・ポチポチをすることでわかってもらえることだろうと思う。

10 四

四月である。死月とも書く。

そこいらで生き物が生まれ、死んでいく。生死の季節である。

人間も多くが生まれ、そして、死んでいく。生死の季節である。

新しい環境に馴染めずに死んでいく者たちが少しでも減るように祝福と祈りを捧げたいところではあるが、自分のことで手一杯である。

だがしかし、さあ、生き延びて、斜陽に傾ぐ家々の灯火とならんことを。

9 多

青春は多面体構造だ、という話。

「正」n面体というと違う気がする。青春はどちゃどちゃにゆがんでいるのである。球体というのも違う気がする。青春が球体をしていると知ったら卒倒する青春ボーイズ&ガールズがいる以上、否定せざるを得ないのである。

青春は「固体」か? 液体とか気体とかの方がイメージに近いのでは? などという話をしたいわけではなく、ぼくはただ、青春は多面体構造であると言いたいだけなのであって、青春がどんな態をとっていようがおかまいなしなのである。

 

それはそうと、ぼくたちは青春の一面、あるいは、せいぜい二面程度しか見ることができない。青春は外から覗き込むには複雑に過ぎる。人間は単純化が好きな動物であるから、ミクロな視点では複雑なフラクタル構造も、平滑な単層構造として捉えてしまいがちである。一方で、内からはそもそも観測が難しい。青春の只中にて、メタ視点の好奇心を維持できるほど、ぼくたちの心は強くできていない。誰しも、青春を駆けることに必死になってしまうということである。そういうわけで、ぼくたちは青春の一面、あるいは、せいぜい二面程度しか知らないのである。

しかし、青春は多面体構造である。これは単なる仮説に過ぎない。いかんせん、証明は困難を極める。一般的事実として証明することは難しい。そのため、ぼくたちは青春の一面、一面を丁寧に白日の下に晒していくのである。全てを明らかにするのは無理であっても、それが57面体でないことや1694675276面体でないことは証明可能なのである。n面体の青春が現実にいかなる形を取っているのかを見ていくこと、ぼくはそのことに非常な興味を持つ者の一人である。

8 寒い

寒い。ほんとうは寒くないのだけれども、寒いと言わないといけない風潮がある。これはよくない、と思う。

ぼくはみんなが寒い寒いと言っている中で寒くないと思うことができる選ばれた人間の一人である。ほんとうに寒くないのである。窓を開けると吹き込んでくる風が心地よく、ふいに春を感じてしまったのも、つまりはぼくが寒さに強いからなのである。凡夫は「寒い」としか言えないのである。これは語彙の問題でもある。「寒い」という言葉以外に、知らないのである。夏になれば、「暑い、暑い」と言い始める。「寒い」という言葉を忘れてしまっているのである。一つの言葉しか覚えられないのである。

そういったことも起こりうるのである。

起こりうる全てがせかいなのである。

ぼくが春の風に心をときめかせているのも、せかいの必然なのである。