詩と愛

詩と絵のアイデア

31 中学の校長が死んだ

中学の校長が数年前に死んだ。

「熱意のある良い教師であった」という噂が耳に入ってきたとき、思いもかけず、吹き流される襤褸のビニル袋を幻視した。

そのことが酒による酩酊も手伝ってか示唆的に感じられ、やはり無意味に染み込んでいく。

それもいつしか荒砂の風に削ぎ落とされてしまった。

30 Grove

木立を歩いていた。

日が昇る前だったからか、森全体が薄暗く、霧がかっていた。涼を期待して早朝の散歩に繰り出したのであったが、予想を上回る肌寒さに思いがけず身震いをする。歩けば歩くほどに服が冷たく湿っていった。初秋はすぐそこまで来ていた。

 

見慣れない植物が、ひとつだけ、ポツンと根を下ろして花を咲かせていた。赤みがかった花弁は辺りが透けて見えるくらいに薄い。間も無く散るものと見えた。中心には雌蕊が所在無げに座している。顔を近づけてみると、砂糖菓子みたく甘い香りが漂ってきた。唾液に触れて、溶け出した、砂糖菓子の、逃れ難く、絡みつくような。
雄蕊は見当たらなかった。

 

少年は"Globe"を"Grove"と綴った。

黎明の木立が大気を纏う。

濃い霧はやがて合一する。

古えの地表は水粒を纏う。

少年は"Grove"を"Globe"と綴った。

すぐ傍では水が湧いて、泉になっていた。少女ひとり沈めれば満ちてしまうくらいに、ちいさな泉だった。肌を裂くような冷たさが、渾々と湧き上がる。拒絶の端に受容の熱を認めれば、小止み無く引きずり込まれてゆく。

雨粒が描く波紋に、指先が、溶け出していくのを見ていた。

木立は地表にあって、それ自体が大地だった。見慣れない植物の、薄い花弁を一枚、一枚と剥ぎ取ってみると、辺りに甘ったるく腐敗した、地表の真実が拡散した。裸の雌蕊をそのままに、根から抜く。根の千切れる音が爽やかに弾け、滴る雨に吸い込まれる。
全てが還っていく。
やがて、一体となる。

29 無辺際オーパーツ

頭蓋の内側でネズミみたいに走り回っている。

 

愛の無い時代だ。

噂が下水を伝って新興住宅地の排水溝から溢れ出る。

愛を詠う人々が「愛ではない何か」を愛に見立てたまま死んでいったA.D.2000。

美しい文字列を前に、ネズミの足音が頭蓋に響き亘る。

 

無軌道なそれを、あの子は片手でキャッチした。

ありふれた日常の一部だ。

なんて、言いたそうに、細めた目。頭蓋に埋没した、エメラルド・グリーン。

ひしゃげて埃に塗れたペットボトル・ロケット。

地球から届いたことは明らかだった。

酸素の香りが微かに残っている。

一枚の紙切れに書き付けられた、「愛」の文字がネズミのしっぽみたいに。

 

「800年前の地球から、忘れられたぼくたちのもとへ」

ひしゃげて埃に塗れた、愛を片手に。

 

愛の無い時空では、いま、ネズミが夜闇を駆けてゆく。

28 アウト・オブ・プレイス

道端にペットボトルが転がっている。まだ中身は入っているようで、かすかな振動にちゃぷちゃぷと揺れている。人通りのある往来だ、いずれ誰かが捨てるかもしれないが、もしこれが人里離れた山野であったならいつまでも遺り続けるのだろうか。
折れた道路標識が放置されている。駐車禁止。絡みつく雑草を払って持ち上げてみたところ、思っていたよりも軽い。駐車禁止もこれほど軽いと拍子抜けである。いずれ草に覆い尽くされ、ペンキは剥げ落ち、腐食して、完全に消え去るのかもしれないな。と思っていたら、数日後に新しい駐車禁止の標識が設置された。古い駐車禁止の標識とはそれきりだった。
転がるペットボトルも放置された駐車禁止も、全て人間の手によって作り出されてその場所に存在するのだ。そしてまた、人間の手によってそれらは回収されていき、必要があれば新しいものと入れ替えられてしまう。このアナログな回路が生活空間の根本にあり、これは概ね人間の手に委ねられている。
不慮の事態によりこの回路から抜け出てしまうものがある。忘れられたものたち。そういったものの一部は自然に飲み込まれ、一部は永い時を経て歴史の特異点となった。道端に転がるペットボトルもそのひとつであると、半ば冗談のような仮説に数学的な証明が付与され、人々は狂いに狂った。

 

やがて全てはオーパーツ

 

タイム・カプセルで時を超えよう。
優雅に独り、丸まって。
四次元旅行のお供に'80年代少年誌とインベーダー・ゲームが備え付けられた。電気をどこから取るのか、皆が疑問に思ったが、皆がそれを無視した。最初にカプセルに入った人は恋人に向かってこう言った。"悪いね、このカプセルは独り用なんだ。"

この噂は世界中をセンセーションを伴って駆け巡った。偶然のことながら、カプセルの本質にまっすぐに触れていたから。世界初のタイム・カプセルは間もなく凍結プロセスに移行された。
文明の崩落の後には道端に転がるペットボトルだけが遺るのだろう。人の手の導きから逃れた者たちだ。放棄された、文明の蓄積だ。わずか数百年の後、人々は転がるペットボトルを見て、中身に口を付ける。いやに気の抜けたコーラだ。彼らは忘れてしまった。ただ、口を通して流れ込む遥か彼方の記憶に咽び泣く。
若い母親は幼い子らに言った。情報が氾濫するから、キャップはしっかり締めておいて。幼い子らは言いつけ通りにキャップをしっかりと締めて、彼らが見た地上の、ありとあらゆる場所に中身の揺らぐペットボトルを転がした。

27 骨

「骨の島」という考えが夜になって不意に湧いてくる。(些末な考えが湧いてくるのは大抵が夜なのだ、夜だけは生活に追われることもないからね)
「骨」という言葉が入っているだけで妙に物々しくなる向きがあるが、何のことはない、どこぞの火葬大国のことである。
火葬したあとの骨が、半永久的に遺り続けるのではないか。そうすればいつか、骨は行き場をなくしてあちらこちらに無造作に捨て置かれるのではないか。子供の頃にそのようなことを考えたことがある。近くに納骨堂があったからかもしれない。納骨堂がいっぱいになったらどうなるのだろうかと、同根の疑問に頭を悩ませていた。地面に埋めるか、川に流すかするのだと思っていたが、ルールというものに縛られてからはそんな考えもなくなった。今でもよく分かっていない。
あるいは野垂れ死して肉が腐り、遺されてしまった骨たちがあってもおかしくない。火葬大国も幾重にも亘る戦乱をくぐり抜けてきたのであるから、そのような時代、野辺に討死した彼らの真白な骨。それが地に埋められて今や息をしていないのである。
こういった骨、骨、骨が、いつしか飽和して「骨の島」になってしまうのではないか。骨の上を歩き、骨に身を横たえ、骨に埋まっていく。

骨の安定性を過信していた当時、このような美しい妄想のおかげでようやく呼吸が出来ていた。骨がやがて土中で分解され得ると知ったのは数年後のことだったか。骨の大部分はなんとかという化合物なのでなんとかによりなんとかとなんとかに分解されます。なるほど。
知りたくないことばかりが増えていく。知りたくない。知りたくない。何も知りたくない。と、夭折した詩人は歌った。
知らなければよかったこと、山ほどあるように思う。科学は多くの知識をもたらしたが、何も教えてはくれなかった。それでは何物に教えを乞えと言うのか。
骨が先達となる。そのとおり。骨を具に観ることだ、と彼らは言った。分解されてなんとかとなんとかになってしまったあとにも、骨は骨であり続ける。それは「かつて骨だったもの」であり、骨としての記憶を継いでいく。風に舞う骨粉でさえも分解されて、地表を飾り立てるひと粒の塵に成り果ててしまったとしても、人間は骨の島に歩き、骨の島に身を横たえ、骨の島に埋まっていく。骨の記憶が肺の奥底に留まれば、次の一息が生命の産声に変わる。
骨の島に生きている。

26 線

駅がある。
駅があるということは電車が走るということであり、電車が走るということは線路があるということでもある。

 

ある時、途切れた線路を見かけた。駅からわずかに離れたところで、見事なまでに途切れている。途切れた場所は柵に囲われており、容易に幼子らが出入りできない構造になっている。柵の外は道になっていた。かつてはレールだけが走っていたところにアスファルトが流し込まれて、埋め込みながら固まってしまったのか。委細不明であるが、道になっていることは確かである。緋く錆びたレールが不服そうに顔を覗かせている。
線路の先は撤去されたに違いない。そうでなければ駅からわずかに伸びた、どこに辿り着くわけでもないレールが遺されているはずがなかった。この線路はかつてどこかに繋がっていた。大部分が撤去された今となっては、どこに繋がっていたのかを推し測ることさえできない。レールは撤去されてしまった。ほんの一部が、訳も分からず、役割を奪われる格好で、遺されてしまった。

 

線路を見ている。

かつて失われた光が、遠方から還り来て、緋く錆びたレールを鈍く閃かせる。

 

そういった想像も、駅に近づく電車の警笛に掻き消される。

吐き出される乗客と飲み込まれる乗客の中に自分がいないことを遠目に認める。
街灯の明かりが影を落としてくれないことを知る。
目の前で途切れた家路が知らない誰かの柵で囲われていく。

どこかの踏切で遮断機の降りる音が聞こえる。

25 僕

ラブ。

僕ラブ16を目標に詩作を続けてきたという事実と、下痢が止まらなくなったという事実と、耳鳴りが止まらないという事実がぼくの近況を詳らかに説明してくれる。終わってしまっていると言える。

僕ラブにて需要不明の詩集を出す予定であるが、詩の体裁を取っているかと問われれば答えに窮してしまう。

詩とはなんだ。韻を踏んでいれば詩になるのか。

ぼくはボードレール「巴里の憂鬱」を読んで以来、あらゆる文字媒体を詩だと思い込んでいる節がある。この答えは乱暴に過ぎることもわかっているが、自己肯定のためにも止められない。

たとえば、朝のニュースも詩である。朝のニュースが詩でなければなんなのだ。朝のニュースか。たしかに、朝のニュースは朝のニュースである。とすれば、「昼のニュースは昼のニュースであるか」という問いが生まれるが、これはまた別の問題であるので、また後日取扱うこととする。

いま問題とされているのは、詩が何であるかということである。詩とは詩である。これはひとつの回答である。「詩とは詩である」という回答それ自体が詩であり、詩がいかなるものであるかを示唆している。そうすると、「朝のニュースは朝のニュースである」という一文も詩なのではないか。ほんとうに詩か? 詩とはなんだ。堂々巡りである。詩の条件と思しきものを挙げていく遊びも可能であるが、あまりにもナンセンスなので止めておいたほうが良い。これは教訓である。

さて、教訓が得られたところで冒頭の話に戻るのは、一つの常套手段である。「ラブライブ詩」、とりわけ、「はなよちゃん詩」というジャンルを今回の詩集の主題としたのであるが、あらゆる場所、あらゆる時代の少女(すなわち、はなよちゃん)を、なるべく軽いタッチで描くことを目的としている。はなよちゃんという概念が限界を持たないために、「はなよちゃん詩」というジャンルも限界を持たない。これは良い点であるが、一方で原作におけるはなよちゃん像(一つの特異点であり、これが全てではないことに留意する必要がある)からひどく逸脱するおそれがある点はよろしくないと考えている。それは「僕らのラブライブ」という場においては失礼に当たるのではないかという危惧があり、そのあたりのバランスを見極める必要性を感じているのである。読み手の読み方にも左右されるところであるため完全に調整することは叶わないが、できる限り不具合のないように作製しているつもりではある。

また、ぼくはいくらかの少女像を提供してみることにした。これは必ずしもはなよちゃんやその他メンバーに合致するものではないかもしれないが、そこに彼女らを当てはめる形で想像を膨らませれば、そこから新たなラブライブ観が生まれる可能性があるのではないかと期待している。ラブライブは無限の可能性に満ちている。だからこそ、その可能性を試したくなってしまうのである。

論理破綻したことをだらだらと書く(ぼくにとって)ストレスフリーなブログにしたいと思っているが、たまには伝えるべきことを書く必要に駆られる。ので書いた。あとは下痢と耳鳴りが止んでくれれば最高なのだけれども。