詩と愛

詩と絵のアイデア

27 骨

「骨の島」という考えが夜になって不意に湧いてくる。(些末な考えが湧いてくるのは大抵が夜なのだ、夜だけは生活に追われることもないからね)
「骨」という言葉が入っているだけで妙に物々しくなる向きがあるが、何のことはない、どこぞの火葬大国のことである。
火葬したあとの骨が、半永久的に遺り続けるのではないか。そうすればいつか、骨は行き場をなくしてあちらこちらに無造作に捨て置かれるのではないか。子供の頃にそのようなことを考えたことがある。近くに納骨堂があったからかもしれない。納骨堂がいっぱいになったらどうなるのだろうかと、同根の疑問に頭を悩ませていた。地面に埋めるか、川に流すかするのだと思っていたが、ルールというものに縛られてからはそんな考えもなくなった。今でもよく分かっていない。
あるいは野垂れ死して肉が腐り、遺されてしまった骨たちがあってもおかしくない。火葬大国も幾重にも亘る戦乱をくぐり抜けてきたのであるから、そのような時代、野辺に討死した彼らの真白な骨。それが地に埋められて今や息をしていないのである。
こういった骨、骨、骨が、いつしか飽和して「骨の島」になってしまうのではないか。骨の上を歩き、骨に身を横たえ、骨に埋まっていく。

骨の安定性を過信していた当時、このような美しい妄想のおかげでようやく呼吸が出来ていた。骨がやがて土中で分解され得ると知ったのは数年後のことだったか。骨の大部分はなんとかという化合物なのでなんとかによりなんとかとなんとかに分解されます。なるほど。
知りたくないことばかりが増えていく。知りたくない。知りたくない。何も知りたくない。と、夭折した詩人は歌った。
知らなければよかったこと、山ほどあるように思う。科学は多くの知識をもたらしたが、何も教えてはくれなかった。それでは何物に教えを乞えと言うのか。
骨が先達となる。そのとおり。骨を具に観ることだ、と彼らは言った。分解されてなんとかとなんとかになってしまったあとにも、骨は骨であり続ける。それは「かつて骨だったもの」であり、骨としての記憶を継いでいく。風に舞う骨粉でさえも分解されて、地表を飾り立てるひと粒の塵に成り果ててしまったとしても、人間は骨の島に歩き、骨の島に身を横たえ、骨の島に埋まっていく。骨の記憶が肺の奥底に留まれば、次の一息が生命の産声に変わる。
骨の島に生きている。