詩と愛

詩と絵のアイデア

18 韻

「冬の箱庭」

 

落葉の原野は、秋の面影を残したまま、
久遠の湿雪、時の螺旋のはじまり。
順う星空の澤い、仄香、姫椿の閉じた花、
無音の凍てつき、時の左舷の味わい。

 

雪融けのほとり、陽の昇る音、北から、
絢なす希み虚しく、恋の河川と化したり。
吹き染めよ、小鳥、海の産声を灯したまま、
只去る其の日、歌いつ、時の下弦を待ちたり。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

完璧に踏むのは難しい。

17 山

サンカと呼ばれた人々もその子孫も、いまはラッシュ・アワーの駅で新聞を広げて大あくびをしている。

文明から離れて、というのはどうも現代文明を駆け抜ける人間たちにとって憧れであるらしい。「山ガール」という言葉が生まれ、自然への回帰が進められようとしていた時期もあった(「やまおとこ」という言葉は昔から存在した。つまりはポケット怪獣である)。最近流行りのミニマリズムなどは、実態として文明からの逃避と憲法第25条に規定された権利の行使との間で彷徨うものたちを多分に含んでいる可能性がある(文明から離れることで文化的要素に翳りが生じると思いました)。

文明から逃れたいと願う人々の肝にあるのは、文明からの逃避などではなく、単に日常生活からの逃避ではないかと、ぼくは疑うのである。生活はつらい。生きるということ自体がつらい。つらいことから逃れたい人々が凝縮されて、「文明からの逃避」という抽象的怪物が生まれるのである。

しかし、文明から離れたところで生活は生活である。生きている限り、生活から逃れられない。なんたること! と言ったところで、人間は生に自らを人質に取られておりますので。

というわけで、ここに来て、次にすべきことが見えてきたと言えるのである。おわり

16 乙女

椿。

乙女椿と思しき花が、職場近くに咲いていてかわいらしく思っていたところ、今となっては茶に染まり、地に落ちてしまっている。とてもかなしい。

とてもかなしい日は葬式であるが、葬式がとてもかなしい日であるかはわからない。死は感情を超越してしまうのである。

おそらく来年も見られると思うので、それまでは死にならないようにしたほうがよい。

15 休

休。

休みの日に独特の空気というものがある。

穏やかで暖かな大気がそこかしこを巡り巡って、ぼくたちのもとへとやってくるあれである。

つまるところ、春である。春の到来である。春の雰囲気は休みの日のそれとそっくり(いわゆる、クリソツ)なのである。

ぼくが先日、起き抜けに休みだと勘違いしてしまったのも、ひとえに、春の空気にだまされてしまったというただそれだけのことだったのであろう、ぼくは結論づけるのである。

14 センチメンタル

ジャーニー。

ハッチポッチステーションである。

センチメンタルなジャーニーとその他大勢の楽しい仲間たちの人生が織り成す壮大な物語。

そう、人生とは物語なのである。FFXでアーロンも言っていたからまちがいない。ちなみに、物語は人生とは限らない。

人生が物語だとして、それを繙く者が存在するのだとすれば、それはどのような存在なのだろうか。神か。(ところで、これは本筋とはまったく関係のないライフハックであるが、なんでもかんでも神だと言っておけば勝ちになるため覚えておくと時折役に立つ。)

そして、どのような方法で繙くのだろうか。それも気になる。本をめくるように、心を、一枚、一枚とべりべり剥がしていくのだろうか。などと想像してしまうのは困ったものである。

それっぽいことを言うなら、人生を繙くのは自分自身である。過去の記憶を辿って、そこにあった悲喜交々を読み解くのである。

そして、詩の役割のひとつは、その具象化である。昔から人間は、人間のことを語るために言語を、さらには詩を創造してきたのである。そこに込められた熱情を読み取ることで、人間の理解に一歩近づくのではないだろうか。

……などと、ジャーニーは思っているに違いない。なぜならばセンチメンタルだからだ。

13 絵

りんちゃんの残滓を掬い取ろうとするはなよちゃん | 鈴木F [pixiv] http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=62239058

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12 干からびた

みみず。

みみずが干からびると、はなよちゃんがそれを拾って帰ってきてしまう。

はなよちゃんが干からびたみみずを拾って帰ってきてしまうと、ぼくは少しだけ叱らないといけない。叱らないと、干からびたみみずを拾って帰る大人になってしまう。

これは善いことか? はたまた悪いことか?

その点がぼくには判断できない。「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象に対して善悪の判断をつけられるほど大それた人間ではないことはすでに判明している。

それでもぼくは叱らないといけない。なぜならば、「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象を悪だと考える風潮が社会に蔓延っているような気がするから。

しかし、気がするから、というだけで叱ってしまって善いものか? いっそのこと絶大な権力がそれを悪だと決めつけてくれれば、と思わないこともない(これはディストピアの始まりである)。善悪の判断が螺旋を描いてぼくを飲み込んでゆく。

というわけで、ぼくは明快な根拠を持たずに、はなよちゃんを叱ることになるのである。「みみずに水をかけてもどす仕事」の到来が待たれる(水でもどされたみみずは、はなよちゃんによって持ち帰られない)。