詩と愛

詩と絵のアイデア

17 山

サンカと呼ばれた人々もその子孫も、いまはラッシュ・アワーの駅で新聞を広げて大あくびをしている。

文明から離れて、というのはどうも現代文明を駆け抜ける人間たちにとって憧れであるらしい。「山ガール」という言葉が生まれ、自然への回帰が進められようとしていた時期もあった(「やまおとこ」という言葉は昔から存在した。つまりはポケット怪獣である)。最近流行りのミニマリズムなどは、実態として文明からの逃避と憲法第25条に規定された権利の行使との間で彷徨うものたちを多分に含んでいる可能性がある(文明から離れることで文化的要素に翳りが生じると思いました)。

文明から逃れたいと願う人々の肝にあるのは、文明からの逃避などではなく、単に日常生活からの逃避ではないかと、ぼくは疑うのである。生活はつらい。生きるということ自体がつらい。つらいことから逃れたい人々が凝縮されて、「文明からの逃避」という抽象的怪物が生まれるのである。

しかし、文明から離れたところで生活は生活である。生きている限り、生活から逃れられない。なんたること! と言ったところで、人間は生に自らを人質に取られておりますので。

というわけで、ここに来て、次にすべきことが見えてきたと言えるのである。おわり

16 乙女

椿。

乙女椿と思しき花が、職場近くに咲いていてかわいらしく思っていたところ、今となっては茶に染まり、地に落ちてしまっている。とてもかなしい。

とてもかなしい日は葬式であるが、葬式がとてもかなしい日であるかはわからない。死は感情を超越してしまうのである。

おそらく来年も見られると思うので、それまでは死にならないようにしたほうがよい。

15 休

休。

休みの日に独特の空気というものがある。

穏やかで暖かな大気がそこかしこを巡り巡って、ぼくたちのもとへとやってくるあれである。

つまるところ、春である。春の到来である。春の雰囲気は休みの日のそれとそっくり(いわゆる、クリソツ)なのである。

ぼくが先日、起き抜けに休みだと勘違いしてしまったのも、ひとえに、春の空気にだまされてしまったというただそれだけのことだったのであろう、ぼくは結論づけるのである。

14 センチメンタル

ジャーニー。

ハッチポッチステーションである。

センチメンタルなジャーニーとその他大勢の楽しい仲間たちの人生が織り成す壮大な物語。

そう、人生とは物語なのである。FFXでアーロンも言っていたからまちがいない。ちなみに、物語は人生とは限らない。

人生が物語だとして、それを繙く者が存在するのだとすれば、それはどのような存在なのだろうか。神か。(ところで、これは本筋とはまったく関係のないライフハックであるが、なんでもかんでも神だと言っておけば勝ちになるため覚えておくと時折役に立つ。)

そして、どのような方法で繙くのだろうか。それも気になる。本をめくるように、心を、一枚、一枚とべりべり剥がしていくのだろうか。などと想像してしまうのは困ったものである。

それっぽいことを言うなら、人生を繙くのは自分自身である。過去の記憶を辿って、そこにあった悲喜交々を読み解くのである。

そして、詩の役割のひとつは、その具象化である。昔から人間は、人間のことを語るために言語を、さらには詩を創造してきたのである。そこに込められた熱情を読み取ることで、人間の理解に一歩近づくのではないだろうか。

……などと、ジャーニーは思っているに違いない。なぜならばセンチメンタルだからだ。

12 干からびた

みみず。

みみずが干からびると、はなよちゃんがそれを拾って帰ってきてしまう。

はなよちゃんが干からびたみみずを拾って帰ってきてしまうと、ぼくは少しだけ叱らないといけない。叱らないと、干からびたみみずを拾って帰る大人になってしまう。

これは善いことか? はたまた悪いことか?

その点がぼくには判断できない。「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象に対して善悪の判断をつけられるほど大それた人間ではないことはすでに判明している。

それでもぼくは叱らないといけない。なぜならば、「干からびたみみずを拾って帰る大人」という事象を悪だと考える風潮が社会に蔓延っているような気がするから。

しかし、気がするから、というだけで叱ってしまって善いものか? いっそのこと絶大な権力がそれを悪だと決めつけてくれれば、と思わないこともない(これはディストピアの始まりである)。善悪の判断が螺旋を描いてぼくを飲み込んでゆく。

というわけで、ぼくは明快な根拠を持たずに、はなよちゃんを叱ることになるのである。「みみずに水をかけてもどす仕事」の到来が待たれる(水でもどされたみみずは、はなよちゃんによって持ち帰られない)。

11 麗

うららかな春の陽気、と言われたところで「うららかな」のあたりがどうもピンと来ない。正確な意味を求める諸氏におかれては、お得意のスマホ・ポチポチで上手にやればいいのであって、ここではうららかについてこれ以上の詳細は記載されないのであるが、どうせ「なんとなくいい感じ」程度の意味合いだろう、と日本人経験そこそこの人間であるところのぼくは思うのである(実際にスマホ・ポチポチをするとだいたい合っていることが確認できるはずだ)。

ところで、「うららかな」から想起されるのは「おてんば少女」であり、「うるわしの」から想起されるのは「深窓の令嬢」であるということは周知の事実である。いやに方向性の異なる少女像であるが、いずれも「麗」の字を当てている。共通項はないかと今世紀最大の知性に照らしてみたところ、どちらもやはり「なんとなくいい感じ」であるという点において共通している、という発見がある。

しかしなんというか、「深窓の令嬢」というとなんとなくどころではないいい感じがするよなぁ、というのが、ぼくが最終的に言いたいことであり、春の陽気がうららかだろうがなんだろうが「深窓の令嬢」の前には塵芥に過ぎないのである。

ところで「深窓の令嬢」の正確な意味を知りたければ、これまたお得意のスマホ・ポチポチでがんばるといい。ここでは「なんとなくどころではないいい感じのする人」程度の意味で扱っているし、9割がた正しいということが、実際にスマホ・ポチポチをすることでわかってもらえることだろうと思う。