詩と愛

詩と絵のアイデア

25 僕

ラブ。

僕ラブ16を目標に詩作を続けてきたという事実と、下痢が止まらなくなったという事実と、耳鳴りが止まらないという事実がぼくの近況を詳らかに説明してくれる。終わってしまっていると言える。

僕ラブにて需要不明の詩集を出す予定であるが、詩の体裁を取っているかと問われれば答えに窮してしまう。

詩とはなんだ。韻を踏んでいれば詩になるのか。

ぼくはボードレール「巴里の憂鬱」を読んで以来、あらゆる文字媒体を詩だと思い込んでいる節がある。この答えは乱暴に過ぎることもわかっているが、自己肯定のためにも止められない。

たとえば、朝のニュースも詩である。朝のニュースが詩でなければなんなのだ。朝のニュースか。たしかに、朝のニュースは朝のニュースである。とすれば、「昼のニュースは昼のニュースであるか」という問いが生まれるが、これはまた別の問題であるので、また後日取扱うこととする。

いま問題とされているのは、詩が何であるかということである。詩とは詩である。これはひとつの回答である。「詩とは詩である」という回答それ自体が詩であり、詩がいかなるものであるかを示唆している。そうすると、「朝のニュースは朝のニュースである」という一文も詩なのではないか。ほんとうに詩か? 詩とはなんだ。堂々巡りである。詩の条件と思しきものを挙げていく遊びも可能であるが、あまりにもナンセンスなので止めておいたほうが良い。これは教訓である。

さて、教訓が得られたところで冒頭の話に戻るのは、一つの常套手段である。「ラブライブ詩」、とりわけ、「はなよちゃん詩」というジャンルを今回の詩集の主題としたのであるが、あらゆる場所、あらゆる時代の少女(すなわち、はなよちゃん)を、なるべく軽いタッチで描くことを目的としている。はなよちゃんという概念が限界を持たないために、「はなよちゃん詩」というジャンルも限界を持たない。これは良い点であるが、一方で原作におけるはなよちゃん像(一つの特異点であり、これが全てではないことに留意する必要がある)からひどく逸脱するおそれがある点はよろしくないと考えている。それは「僕らのラブライブ」という場においては失礼に当たるのではないかという危惧があり、そのあたりのバランスを見極める必要性を感じているのである。読み手の読み方にも左右されるところであるため完全に調整することは叶わないが、できる限り不具合のないように作製しているつもりではある。

また、ぼくはいくらかの少女像を提供してみることにした。これは必ずしもはなよちゃんやその他メンバーに合致するものではないかもしれないが、そこに彼女らを当てはめる形で想像を膨らませれば、そこから新たなラブライブ観が生まれる可能性があるのではないかと期待している。ラブライブは無限の可能性に満ちている。だからこそ、その可能性を試したくなってしまうのである。

論理破綻したことをだらだらと書く(ぼくにとって)ストレスフリーなブログにしたいと思っているが、たまには伝えるべきことを書く必要に駆られる。ので書いた。あとは下痢と耳鳴りが止んでくれれば最高なのだけれども。