6 虫の声
田舎に住んでいた頃、窓を開けると虫の声が聞こえてきていた。季節によってはカエルの声とか。ここで、カエルの卵はおいしいのか気になるところだが、気にしてもしかたがない。(食べる必要がないから)
それで、別に「田舎にいた頃に聞こえていた虫の声が都会だと聞こえない」といったセンチメンタリスト(存在するかどうかわからないが意味合いは伝わる系統の言葉だ)じみたことを言いたいわけではなくて、きっと、ナナフシのかわいさについて話したいのである。きっと。
細い。細さは強みだと思う。人間も細ければ細いほど良いと考える人々がいて、そうでない人々がいて、成り立っている。細さは世界の成員の一つだ。強い。あんなに折れそうな身体でも、普通にしていれば折れない。普通にしていれば、というところがミソで、たとえば人間が手を下すと、折れる。そういった類の強さだ。
細くても折れない、が、ときどき折れる、ということは、儚さに通ずるものがあるとぼくは思うこともある。「通ずる」という言葉の音は気持ち悪くて嫌だ。最悪である。二度と使いたくないが便利なので使ってしまう。人間は便利さに勝てない。儚さにも勝てない。儚いということは終わってしまう予期があり、終わってしまったものに人間は勝てない。カールがジョン・マクレーンに勝てないのと同じ理屈である。ちがうかもしれない。
ぼくは終わってしまったものに対してやさしい。ほんとうに認めたくない事実だと思うけれども、ぼくは終わってしまったものに対してやさしい。それと同時に、終わってゆくものに対してもやさしい。これは、ぼくなりの愛だ。と、ぼくはぼくなりに思ってしまう。儚さが、ひとつの愛を産んでいる。
ナナフシのかわいさも、そこから来ている。