詩と愛

詩と絵のアイデア

21 旬

魚自体がおいしいのに、旬の魚はもっとおいしい。異常事態である。

人間にも旬があったらおもしろい。夏は旨いが、冬は食べられたものじゃない。といった感じの。

人間を捕獲するときは魚と同じように、網が有効である。たとえば新宿駅で網を張っておくと、望んだ効果が期待されるが、乱獲の問題が発生するために規制が設けられることになる。駅であればやはり乗降者数に応じた人獲量が設定されることになるのだろうか。いや、そもそも捕獲可能なエリアが制限される可能性がある。多数人が利用し得る施設での捕獲は不可である等の規制が設けられれば、捕獲業者が向かう先はどこなのだろうか。「多数人が利用し得る施設」ではないところの空き地等でフェス等のイベントを開催することにより、「多数人が利用し得る施設」ではない場所に多数人を集める者が現れるとおもしろい。一網打尽である。そうなると、屋外イベントはすべて釣り餌のようなものである。人々は不信感のため屋外イベントから足が遠のき、野外フェスなどは衰退してゆくのだろうか。いや、指定区域が設定されるのか。そもそも野外フェスとはなんだ。現状、野外フェスを行うにあたり届出等があるのか。野外フェスに行く人々とは野外フェスに行く人々なのか。野外フェス。

野外フェスに対する疑問は尽きないと言える。

19 超

超。

「超えていこう」と頻繁に思う。

何を超えていくつもりなんだぼくは?

などと頭をひねったところで、幼少期に母親から、ぼくの話には主語と目的語がないからわかりにくいと説教を受けたことを思い出す。「超えていこう」もまさにそれである。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

とはいえ、肝心の問題は解決していない。ぼくは何を超えていこうとしているんだ? 人知か?

人知を超えようと試みることは大事である。所詮は人知、人間の為すことであるため、ゴジラから見たアリみたいなものである(ところで、ゴジラの目の分解能ではアリは見えない。これは豆知識として明日にでも披露すると良い)。

人間が自らの存在を超えてしまったとき、何物にも代えがたいものが生まれ得る。それは抽象的であり、それゆえに普遍性を持ち、かつ、永続的である。つまるところ、芸術なのである。

人知を超えた先にある芸術。ぼくはどうやら、そこに到達することを心奥で希求しているようであるなあ!(いい加減に書き始めたのに、ぼくの崇高な魂の一片が顕になる良記事でしたね、と、いい加減に締めておきます)

18 韻

「冬の箱庭」

 

落葉の原野は、秋の面影を残したまま、
久遠の湿雪、時の螺旋のはじまり。
順う星空の澤い、仄香、姫椿の閉じた花、
無音の凍てつき、時の左舷の味わい。

 

雪融けのほとり、陽の昇る音、北から、
絢なす希み虚しく、恋の河川と化したり。
吹き染めよ、小鳥、海の産声を灯したまま、
只去る其の日、歌いつ、時の下弦を待ちたり。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

完璧に踏むのは難しい。

17 山

サンカと呼ばれた人々もその子孫も、いまはラッシュ・アワーの駅で新聞を広げて大あくびをしている。

文明から離れて、というのはどうも現代文明を駆け抜ける人間たちにとって憧れであるらしい。「山ガール」という言葉が生まれ、自然への回帰が進められようとしていた時期もあった(「やまおとこ」という言葉は昔から存在した。つまりはポケット怪獣である)。最近流行りのミニマリズムなどは、実態として文明からの逃避と憲法第25条に規定された権利の行使との間で彷徨うものたちを多分に含んでいる可能性がある(文明から離れることで文化的要素に翳りが生じると思いました)。

文明から逃れたいと願う人々の肝にあるのは、文明からの逃避などではなく、単に日常生活からの逃避ではないかと、ぼくは疑うのである。生活はつらい。生きるということ自体がつらい。つらいことから逃れたい人々が凝縮されて、「文明からの逃避」という抽象的怪物が生まれるのである。

しかし、文明から離れたところで生活は生活である。生きている限り、生活から逃れられない。なんたること! と言ったところで、人間は生に自らを人質に取られておりますので。

というわけで、ここに来て、次にすべきことが見えてきたと言えるのである。おわり

16 乙女

椿。

乙女椿と思しき花が、職場近くに咲いていてかわいらしく思っていたところ、今となっては茶に染まり、地に落ちてしまっている。とてもかなしい。

とてもかなしい日は葬式であるが、葬式がとてもかなしい日であるかはわからない。死は感情を超越してしまうのである。

おそらく来年も見られると思うので、それまでは死にならないようにしたほうがよい。

15 休

休。

休みの日に独特の空気というものがある。

穏やかで暖かな大気がそこかしこを巡り巡って、ぼくたちのもとへとやってくるあれである。

つまるところ、春である。春の到来である。春の雰囲気は休みの日のそれとそっくり(いわゆる、クリソツ)なのである。

ぼくが先日、起き抜けに休みだと勘違いしてしまったのも、ひとえに、春の空気にだまされてしまったというただそれだけのことだったのであろう、ぼくは結論づけるのである。