詩と愛

詩と絵のアイデア

10 四

四月である。死月とも書く。

そこいらで生き物が生まれ、死んでいく。生死の季節である。

人間も多くが生まれ、そして、死んでいく。生死の季節である。

新しい環境に馴染めずに死んでいく者たちが少しでも減るように祝福と祈りを捧げたいところではあるが、自分のことで手一杯である。

だがしかし、さあ、生き延びて、斜陽に傾ぐ家々の灯火とならんことを。

9 多

青春は多面体構造だ、という話。

「正」n面体というと違う気がする。青春はどちゃどちゃにゆがんでいるのである。球体というのも違う気がする。青春が球体をしていると知ったら卒倒する青春ボーイズ&ガールズがいる以上、否定せざるを得ないのである。

青春は「固体」か? 液体とか気体とかの方がイメージに近いのでは? などという話をしたいわけではなく、ぼくはただ、青春は多面体構造であると言いたいだけなのであって、青春がどんな態をとっていようがおかまいなしなのである。

 

それはそうと、ぼくたちは青春の一面、あるいは、せいぜい二面程度しか見ることができない。青春は外から覗き込むには複雑に過ぎる。人間は単純化が好きな動物であるから、ミクロな視点では複雑なフラクタル構造も、平滑な単層構造として捉えてしまいがちである。一方で、内からはそもそも観測が難しい。青春の只中にて、メタ視点の好奇心を維持できるほど、ぼくたちの心は強くできていない。誰しも、青春を駆けることに必死になってしまうということである。そういうわけで、ぼくたちは青春の一面、あるいは、せいぜい二面程度しか知らないのである。

しかし、青春は多面体構造である。これは単なる仮説に過ぎない。いかんせん、証明は困難を極める。一般的事実として証明することは難しい。そのため、ぼくたちは青春の一面、一面を丁寧に白日の下に晒していくのである。全てを明らかにするのは無理であっても、それが57面体でないことや1694675276面体でないことは証明可能なのである。n面体の青春が現実にいかなる形を取っているのかを見ていくこと、ぼくはそのことに非常な興味を持つ者の一人である。

8 寒い

寒い。ほんとうは寒くないのだけれども、寒いと言わないといけない風潮がある。これはよくない、と思う。

ぼくはみんなが寒い寒いと言っている中で寒くないと思うことができる選ばれた人間の一人である。ほんとうに寒くないのである。窓を開けると吹き込んでくる風が心地よく、ふいに春を感じてしまったのも、つまりはぼくが寒さに強いからなのである。凡夫は「寒い」としか言えないのである。これは語彙の問題でもある。「寒い」という言葉以外に、知らないのである。夏になれば、「暑い、暑い」と言い始める。「寒い」という言葉を忘れてしまっているのである。一つの言葉しか覚えられないのである。

そういったことも起こりうるのである。

起こりうる全てがせかいなのである。

ぼくが春の風に心をときめかせているのも、せかいの必然なのである。

7 冬小径

ナナフシの話から。

詩を書くときは少女を想起していて、だいたいラブライブのはなよちゃんとりんちゃんを当てはめてしまう。と、簡単にいくことが多い。ぼくは18歳くらいのはなよちゃんとりんちゃんを思い浮かべてみたけれども、それがうまくいったかどうかはどうでもいい。

 

「冬小径」

きみの一歩に、
枯れ枝が、ぽきり、ぽきりと、
冬小径。

 

いつもより足早に、
ぽきり、ぽきり。
ぽきり、ぽきり。
踏み折れた枯れ枝の先っぽに、色あせた葉が残り、
汲み上げた青の記憶を、留めおこうとしている。

 

わたしの一歩に、
枯れ枝が、ぽきり、ぽきりと、
冬小径。

 

枯れ枝をよけて、きみのあと、
どきり、どきり。
どきり、どきり。
高鳴った鼓動のすみっこに、冷やかな澱残り、
片時雨、霞む背中に、薄れ行く春を聴いている。

6 虫の声

田舎に住んでいた頃、窓を開けると虫の声が聞こえてきていた。季節によってはカエルの声とか。ここで、カエルの卵はおいしいのか気になるところだが、気にしてもしかたがない。(食べる必要がないから)

それで、別に「田舎にいた頃に聞こえていた虫の声が都会だと聞こえない」といったセンチメンタリスト(存在するかどうかわからないが意味合いは伝わる系統の言葉だ)じみたことを言いたいわけではなくて、きっと、ナナフシのかわいさについて話したいのである。きっと。

細い。細さは強みだと思う。人間も細ければ細いほど良いと考える人々がいて、そうでない人々がいて、成り立っている。細さは世界の成員の一つだ。強い。あんなに折れそうな身体でも、普通にしていれば折れない。普通にしていれば、というところがミソで、たとえば人間が手を下すと、折れる。そういった類の強さだ。

細くても折れない、が、ときどき折れる、ということは、儚さに通ずるものがあるとぼくは思うこともある。「通ずる」という言葉の音は気持ち悪くて嫌だ。最悪である。二度と使いたくないが便利なので使ってしまう。人間は便利さに勝てない。儚さにも勝てない。儚いということは終わってしまう予期があり、終わってしまったものに人間は勝てない。カールがジョン・マクレーンに勝てないのと同じ理屈である。ちがうかもしれない。

ぼくは終わってしまったものに対してやさしい。ほんとうに認めたくない事実だと思うけれども、ぼくは終わってしまったものに対してやさしい。それと同時に、終わってゆくものに対してもやさしい。これは、ぼくなりの愛だ。と、ぼくはぼくなりに思ってしまう。儚さが、ひとつの愛を産んでいる。

ナナフシのかわいさも、そこから来ている。

5 夏の日のサイダー

夏の日のサイダーは、こぼれない。

グラスが外界と隔てているから。

 

ぼくたち人間も、薄皮が外界と隔てていて、これがなくなれば、もっと混じり合えるのかもしれない。

 

混じり合う必要性はともかくとして。

4 愛と犠牲

ぼくは宮﨑駿監督作品の「風立ちぬ」が好き。

主人公の二郎が、結核患者である菜穂子の傍で煙草を嗜むシーンなのだけれども、あのシーンの「愛っぽさ」というか、ぼくはあれを見て「アッ、愛が形を取っているぞ」と思った。
菜穂子は結核患者だから、気遣って他所で煙草を吸おうと立ち上がる二郎。それを彼女は引き止めるわけだけれども、二郎は二郎でよくないゾと言いながらもそれに従う。
菜穂子は自分の先が短いことを知るから、ほんの少しだけでも、長く共にいたいと思う。たとえ、煙草が結核患者にとってよくなくても。たぶんそういうこと。

一方の二郎、喀血した菜穂子の元に駆けつけていたシーンが印象的。結核患者に密接して、キスまでする。
菜穂子は二郎の犠牲を受け入れた。だからこそ、自らも犠牲を示した。そして、二郎もそれを受け入れた。
犠牲が互いに受け入れられた瞬間、つまり、菜穂子が二郎を引き止めた瞬間に、「アッ、愛が形を取っているぞ」となる。ぼくはなった。